いらっしゃいませ。こちらはお好み部屋です!

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■お好み焼ヒストリー

焼→文字焼→流し焼→どんどん焼→お好み焼。一説によると、お好み焼はこのような進化の過程をたどってきたようだ。最初に登場する麩焼というのは、「ふやき」と読む。これを最初に考案したのは誰あろう、安土桃山時代に活躍した天下の茶人・千利休(1522〜1592)なのである。千利休はクレープのように焼いた生地に味噌をぬって、ロールケーキのように巻き、適当な大きさに切り分け、お茶菓子「麩焼」としたと伝えられている。まさか、お好み焼きのルーツを千利休が考案したとは以外な史実としかいいようがあるまい。おそらく、これをもとに考えられたであろう「麩の焼」が売り出されたのが、江戸時代の寛永年間。うどん粉を水でこね、鉄板に薄く伸ばして焼き、片面に味噌をぬって食べたのだそうだ。
代が明治に移ると麩の焼にとって変わって、東京の下町では、もんじゃ焼が登場する。当時のもんじゃ焼の主原料は、桜えび、きりいか、揚げ玉、紅生姜と野菜、それにほとんど水に近い小麦粉の生地だけ。駄菓子屋の子供たちには人気があったようだ。そのうち、東京の下町を太鼓をたたきながら売り歩くどんどん焼が現れる。
んじゃ焼きは関東大震災以降、下町の根強い人気に支えられ、市民権を獲得したが、箱根を越えることなく東京のみのローカルな食べ物のまま戦後を迎える。他方、東京でいまひとつパッとしなかったどんどん焼きは、思わぬ広がりをみせて日本の町々に根付いていく。移動式屋台のどんどん焼きは、駄菓子屋のもんじゃ焼と違って子供たちに鉄板を解放することができなかった。そのため固めにコンパクトに焼かざるを得ない。当然どんどん焼きはお持ち帰り専門だった。こうして表通りに出たどんどん焼きは、地方の都市ではふたたび駄菓子屋に落ちつくことになる。そしてそのうち、名前もハイカラに一銭洋食と変わっていった。一銭洋食は、粉には別段味付けをしておらず、刻んだネギやキャベツを入れて、駄菓子屋のおばちゃんが新聞紙にくるんで子供たちに手渡していたらしい。この時代は、まだ醤油味だったようだ。
在のようなソースをかけたお好み焼のスタイルが登場したのは、戦後になってからである。どんどん焼として各地に広まった原始お好み焼が、大正時代に一銭洋食と名前を変えて各地に定着。その後、昭和も戦前までは、相変わらず子供のおやつとしての位置づけは変わらず、大人の嗜好にたえうるものではなかったようだ。ところが、戦後の食料難の時代になって、一銭洋食は小麦粉と野菜などの安い材料を使い、さらなるボリュームアップをはかることで、当時の空腹な大人たちをも魅了したのである。名前もその頃からお好み焼と呼ばれるようになった。この頃、大阪では、材料を生地に混ぜ込んで焼くスタイル、広島では野菜や麺をはさんで焼くスタイルが考案され、それぞれのスタイルが定着し広まっていったのであろう。
しかし、なぜ、大阪と広島で、これほどまでにお好み焼が市民に好まれるようになったのかは謎である。この2大お好み焼消費都市は、店の数も食べる頻度も図抜けているのである。さらなる研究を進めて、次回はこのあたりの謎に迫ってみたいと思う。



column
■どんどん亭・歴代人気メニュー
シリーズNO.1「じゃがべー玉」

茹で上げたほくほくのじゃがいもとチーズ、ベーコンが渾然一体となって、これまでにない食感と味わいでお好み焼ファンを魅了した「じゃがべー玉」。どんどん亭の歴代メニューの中でも、特に印象深い創作メニューです。しかし、仕込みの手間などがネックになって、なかなかグランドメニューとして定着せずに、フェアメニューなど期間限定メニューで度々登場することとなりました。

■どんどん亭・歴代人気メニュー
シリーズNO.2「ポパイ玉」


ほうれん草をたっぷり使った斬新なお好み焼です。
やはりヘルシーなイメージが強かったせいか、女性に人気が高かったメニューでした。「お好み焼にはキャベツ」という既成概念をうち破る痛快さがありましたね。ほうれん草とベーコン、コーン、そして餅まで入ってボリュームも満点!見るからにおいしそうでしょう?

■どんどん亭・歴代人気メニュー
シリーズNO.3「パンプキンチーズ玉」

これもまた、女性に人気の高かったメニューです。
なんといっても、カボチャとチーズ、そしてベーコンの絶妙なマッチング。このベストな3つの具材のハーモニーが幸せを運んでくれる一品でしたね。ただいま、冬のフェアーで復活中です。このチャンスを逃さないで、ぜひ、一度この味を堪能してみてください。